日本からアメリカへ 8

フェローシップ応募の際には、ハーバード大学附属のマサチューセッツ総合病院での病理科5年次レジデントのポジションにも応募し、面接までしましたが、オファーはなしでした。フェローシップあるいは5年次レジデントの本格的なインタヴューをしたのは、ペンシルバニア大学、ピッツバーグ大学も入れた、たった3か所でした。
実は、1994から1995年の病理学研修の応募の時にも、ハーバード大学附属のDeaconess病院(現Beth Israel Deaconess病院)で面接まで行くことができました。もちろん当時の私の第一希望でしたが、残念ながらマッチせずでした。ハーバード大学関連ポジションはこれで2連敗となりました。しかしその後、2001年に教員の公募で見事3度目の正直となるわけです。
4月から6月は引っ越しの準備をしながら、オハイオ州やクリーブランドでまだ行っていない名所を訪問したり、1週間超の休みをとって一人車に乗り、クリーブランドからナイアガラの滝に行き、そこからカナダに入り、トロント、オタワ、モントリオール、ケベックシティ、リヴィエールドゥループ、ニューブランズウィックを回ってアメリカに戻りました。メイン州ではアカディア国立公園に立ち寄りました。そこからマサチューセッツ州とペンシルバニア州を通り抜けクリーブランドに戻りました。一人での自動車旅行は大変でしたが、楽しくとてもいい思い出になりました。
あとはお隣ミシガン州へも自動車旅行し、ザ・ヘンリー・フォードという名前の自動車博物館(デトロイト郊外ディアボーン)や、ミシガン湖 東岸の眠れる熊の砂丘(Sleeping Bear Dunes)の砂の崖の高さに驚嘆しました。私も下って湖面から再び登って戻りましたが、唯一の脱出方法が登ることのみという蟻地獄みたいな信じられないような体験でした。
オハイオ州内ではライト兄弟の自転車屋があったデイトンの国立空軍博物館やシンシナティにも行きました。
そしていよいよ1999年7月から、名門アイヴィーリーグの一角であり全米で最古といわれる医学校があるペンシルバニア大学において私の分子病理学フェローシップが始まりました。
ペンシルバニア大学はあのお札の写真にもなった有名な野口英世が渡米して仕事を始めたところでもあります。野口英世はその伝記を通じて私に多大な影響を及ぼしました。その話については後日「幼少期から大学まで」の記事で詳しく書くことにします。
次回に続く