日本からアメリカへ16(9・11同時多発テロ事件)

私のハーバード大学関連病院(ブリガム&ウィメンズ病院とダナ・ファーバー癌研究所)での二度目の面接が2001年9月10日にあり、一度目と同じく、とても和やかに進みました。二度目の面接についてはもうほとんど記憶に残ってないのです。ただご存じのように、翌2001年9月11日は忘れもしない日となりました。
9月10日の夕方から、私はボストン郊外にあるネイティック・モールの近くのモーテルに宿泊したのを覚えています。そして次の日の9月11日火曜日は自由日でした。その日は朝の通勤ラッシュ状況を把握し、それからどういうところに住まいを探すかボストン近郊を調査しようと考えていましたが、それが実は忘れもしない激動の一日の始まりとなりました。
朝早く起きて、6-7時台と7-8時台に2―3回にわたって、実際に通勤するつもりで病院まで車を運転して、病院近辺の主要道路の通勤ラッシュ状況の下見をしました。当時は朝7時半まではだいたいたいしたことがない交通量ということがわかりました。パンデミックの直前の2019年のようなひどい渋滞が7時台から2時間続くなんてことはありませんでした。
そしてそれを終えてモーテルに帰って来ました。すると、ロビーでテレビがつけられており、何人かが釘付けになっていました。何かただならぬ状況のようでした。それがマンハッタンのワールドトレードセンターへのテロ攻撃の様子でした。まったく信じがたい光景でしたが、これは夢ではなく現実なのだと思いましたが、あまりに現実にしては異常でした。まもなく1つめのビルがあっという間に崩れ去りました。そのあと間もなく2つめのビルも崩れ去りました。私も含めそこにいた人皆茫然としていました。まだ情報に乏しく、何がどうなって何が起こっているのかわからないので、その日はともかく外出を控えてテレビからの情報収集につとめて待機という一日だったと思います。
それからいろいろな事実が判明していきました。ボストンから飛んだ飛行機がハイジャックされテロに使われたこと。ペンタゴンも攻撃されたこと。ペンシルバニア州の真ん中に飛行機が墜落したこと、これらは全部、おそらくテロと関連した出来事ではないかと疑われました。
とにかく状況がちょっとは明らかになるまで何日かはそのモーテルにとどまり、情報収集しました。当時は本当に世界があまりに不確実・不安定に見えました。2日後あたりにおそらくマンハッタンを迂回するようなルートをとれば帰られるということがわかり、ついに帰路につきました。
ニュージャージー州を南へ運転中に、いつもは左側にそびえて見えるはずのワールドトレードセンタービルはもう跡形もなく、もう数日経過していたにも関わらずまだただよう粉塵がマンハッタン中に霞のようにかかっているように見えました。それがさらに私が受けた衝撃を増幅させました。
フィラデルフィアに帰ってからワールドトレードセンタービルについて、それは日系アメリカ人のミノル・ヤマサキの設計によるものと知って、さらにショックを受けました。が、同時に日系アメリカ人がこれほど有名なビルの建設に貢献していたことに改めて誇らしく思いました。
起こった事件は悲しいことではありますが、過去に起こってしまったことは変えることはもうできません。私は日本人としてアメリカで与えられた仕事で最善を尽くす決心が固まりました。
次回に続く