幼少期から大学まで2(播磨戦記)

今回は私の生まれた荻野家の由緒について書こうと思います。時は群雄が割拠する戦国時代の播磨地方です。私の先祖は昔、三木合戦のときに織田信長の重臣である羽柴秀吉と戦った播磨の有力武将、別所長治の家臣であった荻野伊三男義政と伝えられています。別所氏は南播磨地方に勢力がありましたが、織田信長の命により、羽柴秀吉が播磨平定にやってきました。別の播磨の有力武将で御着城を居城にしていた小寺政職の家臣であった小寺(黒田)官兵衛孝高が別所長治を調略した結果、別所氏は織田信長に臣従する意向でありました。ところが別所長治は天正6年(1578年)に突如反旗を翻し、毛利方につき、羽柴秀吉率いる織田家の中国方面軍と三木城において対峙しました。これが三木合戦で、歴史通ならご存じと思います。
三木合戦の際に、他の播磨の有力武将、例えば小寺政職も毛利方に寝返りました。これにより小寺(黒田)官兵衛は難しい立場となりますが、このころにはもう羽柴秀吉の与力(つまり織田家の家臣)のようになっていた可能性があります。このころを境に小寺官兵衛はもとの黒田姓に戻ります。さらに連鎖的に摂津の有力武将の荒木村重も織田家に反旗を翻し、黒田官兵衛は説得に向かいましたが、荒木村重により有岡城に幽閉され、消息を絶ちます。黒田官兵衛は後に有岡城落城の際に救い出され、そのあと秀吉の軍師として大活躍します。2014年のNHK大河ドラマで岡田准一が見事に黒田官兵衛とのちの黒田如水を演じました。準主役といっていい竹中直人の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)役も見事でした。今年の大河ドラマは「豊臣兄弟!」で羽柴秀吉は再び準主役です。
話がそれましたが、私の先祖も巻き込まれた三木合戦では攻城戦においてほぼ完ぺきな包囲網をしいて兵糧攻めをした羽柴方の作戦勝ちでした。別所方も毛利家と連絡をとって抵抗しますが、いかんせん秀吉方の戦略が見事すぎました。支城の淡河城では淡河定範が相手の騎馬隊を攪乱するために多数の雌馬を放つという見事な奇策を成功させたことでも知られています。血気盛んな若者の集団に美女を多数放ったようなものと想像してください。しかし抵抗むなしく、天正8年(1580年)初頭、1年半以上の厳しい籠城戦の末、城内は食料が枯渇し、万策尽き別所長治は降伏、そして城兵(つまり私の先祖たち)の無事の保証と引き換えに一族ともに自刃しました。享年はわずか22歳ともいわれています。辞世の短歌は「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば 」でした。城を枕に全員討ち死に、玉砕もめずらしくない時代です。別所長治は、この勇気ある行動によっていまだに三木では英雄とたたえられています。関西では、死して名を遺し武士の鑑となった例は、劣勢でも後醍醐天皇を裏切らず湊川の戦いで討ち死にした楠正成とこの別所長治が有名です。
私の先祖はこの籠城戦で飢餓に耐えて生き抜き、そして玉砕することなく、生き延びることができました。もし、別所長治公が勇ましく自刃しなければ、私たちはこの世に生まれていません。三木合戦のことは、よく父親から聞かされて育ちました。実家からそう遠くはない三木には自転車で何度も足を運び、別所長治公の首塚や記念碑の前では合掌して黙とうをささげることにしています。三木城址の周りには秀吉方の陣跡もいくつか残っています。武士の本懐だと病をおして包囲網に参陣し、陣中に没した有名な軍師である竹中半兵衛重治の墓もあります(そこにも行ったことがあります)。
ちなみに武将の荻野氏といえば、現兵庫県丹波市にある黒井城を拠点として、丹波の赤鬼として恐れられた、有名な武将の荻野悪右衛門直正(赤井直正)とその義父の荻野秋清がいますが、当家との関連は定かではありません。丹波と播磨は隣国なので、何かしら関係があっても不思議ではないと私は思っています。黒井城には一度このブログを始めたころに自転車で1泊旅行をしました。
私の実家の地域には、三木合戦で降伏後に、落ち武者がにやって来て帰農し、そして新田開発をしたという伝承として残っています。実際私の実家の付近の現在の地区名にも新田という文字が見られます。どうやら、私の祖先の一族がその落ち武者そのものであり、荻野家は西国街道沿いにある地域にて土着、帰農し、庄屋となり、いわば農民のまとめ役として、明治時代までつづきました。現在も地域の古い家、新しい家両方に結構見るのが荻野という表札です。
天正10年(1582年)6月には、本能寺の変後、羽柴秀吉の軍勢が、有名な中国大返しをして、備中高松城から京都への入り口である大山崎まで大行軍しますが、私の実家からわずか200メートルの地点にある、播磨の西国街道を通過したはずです。わが先祖の荻野伊三男義政とその一族も、その行軍を眺め、あるいは炊き出しでもしていたことでしょう。後の話に出てきますが、西国街道は保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校時代の15年以上にわたって私の通学路でした。今でも西国街道を歩いて、明智光秀との山崎・天王山の決戦に挑むために大軍勢が中国大返しで通ったことを想像するだけでわくわくします。
三木合戦で私自身が飢餓を経験したわけではありませんが、私の先祖は食糧不足でたいへんな思いをしました。食料を粗末に扱う人がたいへん多い今だからこそ、食べ物の大切さを語り継ぐ義務があると考えています。現在も栄養疫学を含めた研究をしている(前の記事)のも、それと無縁ではありません。食と健康については前に何度も触れています(こちらの記事)。
食料と農業は全ての国の基本です。日本人は食の味に人一倍こだわるくせに、日本ではどうもほかの職業と比べて農業がおろそかにされていると感じます。これも武士が農民を百姓といって、下に見てさげずんだ江戸時代からの悪しき伝統でしょうか。近年の農業従事者の高齢化と後継者不足は農業をないがしろにしているつけではないでしょうか。さらに地球温暖化による天候不順と災害によって農業経営が年々難しくなっています。農業従事者が豊かな生活を送るということが可能にならなければ国は衰退します。米国は世界最大の経済大国ですが、農業大国でもあり、農産物輸出額は世界有数です。かたや日本は食料自給率が年々低下して自立した国家としては危険な水準です。今や国家戦略として農業を盛り上げねばなりません。
次回へ続く