日本からアメリカへ6

ケースウエスタンリザーヴ大学では、1997年から病理科学専門医の3、4年目の研修を行いました。基本的にはピッツバーグで行った研修の続きですが、後半になると更に臨床病理学(日本でいうところの臨床検査医学)などが加わりました。具体的には血液生化学、微生物学、免疫学、血液学、輸血学などです。

更に、私の移籍の目的がアカデミックな研究をすることであったので、病院での研修に加えて自ら研究室に売り込みをして、大腸癌の分子遺伝学の研究をしている気鋭のMarkowitz教授の研究室で癌の分子遺伝マーカーの探索に関する研究を行いました。私はこのときから将来的には病理学の世界では分子病理学が重要になるということを予見しており、研修期間に分子病理学の基礎となるような技術を学びたいと思ったからでした。

このときの経験が1999年のフィラデルフィアのペンシルバニア大学での分子病理学フェローのポジション獲得につながり、更には2001年のハーバード大学でのポジションの獲得にも有益に働きました。偶然にもハーバード大学で募集されていたポジションは大規模疫学コホート内で発生した大腸癌の症例検体の分子病理学的手法による解析でした。この分子病理学研究と2007年からのハーバード大学公衆衛生学大学院の疫学修士課程での勉強をもとにして、今度は分子病理疫学という新分野の確立を思いつき、2010年にJournal of the National Cancer Institute誌において世界で初めて提唱することとなります。

Markowitzラボの研究テーマが大腸癌だったのも何かの縁だったのかもしれませんが、この時はそのような将来の研究テーマのことは想像にも及ばないことでした。

この経験を振り返って言えることは、やはり自分の属する分野における様々な可能性、将来性を予見しながら、その時主流となっている技術だけでなく、将来性があると考えらる技術や経験を積むということは重要であるといえます。

クリーヴランドでの生活は病理科学の研修と研究でかなり忙しかったのですが、自由時間には全米5大オーケストラの一つに数えられている、クリーヴランド管弦楽団(当時の音楽監督は名指揮者クリストフ・フォン・ドホナーニ)の公演を聞きに行ったりして過ごしていました。特にマーラーの第9番交響曲やショスタコーヴィチの第7番交響曲は忘れられません。

少し余談になりますが、以前、食育と健康という記事に書いたように、私はアメリカ生活では常に食事に苦労してきました。その中でも、私のアメリカ生活の初期が最も食事に苦労した時期でした。ピッツバーグやクリーヴランドなどの米国内陸部は、カリフォルニアやニューヨークとは違いアジア人も少なく、また当時は今のように寿司などの日本食がそこまで人気がなかった時代であったため、日本食レストランなどもほとんどありませんでした。スーパーにある魚は鮭の切り身くらいしかありません。当時の多くの内陸部に住むアメリカ人にとって魚といえば鮭を意味したかもしれません。また、クリーヴランドで私が住んでいたのは屋根裏にあるキッチンのない部屋でした!!病院のカフェテリアなどで出されるうまくない食事を持ち帰って食べた記憶はありますが、正直言って何を食べて生きてきたのかすら覚えていません。また、そもそも日本人が少ないためにボストンのように日本人の集まりなどもありません。来る日も来る日も研修と研究に明け暮れ、本当にあの頃はよく頑張ったと思います。

次はペンシルバニア大学での分子病理学フェローについての話になります。

(次回に続く)

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