日本からアメリカへ 10

1999年から1年間の予定で始まった、ペンシルバニア大学における私の分子病理学フェローシップは非常に楽しい経験で、フェローシップディレクターのDr. Debra Leonardも、指導医のDr. Robert Wilsonも申し分のないメンターでした。1年の間に分子病理学の基礎、検査の実際と実践、報告書作成手順の改善などいろいろやることがありました。それに加えて、遺伝性疾患の分子遺伝検査後のベイズ理論によるリスク推定についてのプロジェクトと論文作成に没頭しました。それでも論文が出版できるまではある程度の時間がかかりました。そのころの仕事からの論文は2002年になってようやくJournal of Molecular Diagnostics(https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/11826188/)、American Journal of Human Genetics(https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/11992267/)やAmerican Journal of Medical Genetics(https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/12116201/)などに出版できました。

このときの私には、将来の米国でのキャリア形成上の大きな問題がありました。私は医療研修のためのJ1ビザで渡米していたので、研修修了後は2年間は母国に帰ることが義務づけられていました。いわゆる2年ルールの問題です。国外から来た研修医には、基本的に研修用のJ1ビザしか発給されません。外国人新米医師をできるだけ母国に帰すことで、米国人新米医師の仕事を奪わないようにするためです。

そうした事情もあって、当時の私は、最低2年間はキャリアのどこかのタイミングで日本に帰ることも検討していました。しかしいろいろな事情もあり、結局は一番自分にとって最適な教職員あるいは独立ポジションを日米において手広く探すということが主眼になります。

ペンシルバニア大学での分子病理学フェローシップは1年の研修プログラムなので、2000年7月には新しいポジションを得ておく必要がありました。もしポジションが無ければ日本に帰国しなければなりません。

しかしJ1 ビザにつきまとう2年ルールもあり、教職探しは事実上不可能に近いものでした。もし本格的な仕事用のHビザや永住権を取るためには、2年間母国に帰るか、2年間帰らなくてもよいという許可を取ることが必要です。そのためには例えば、米国人病理科医師に人気のない僻地の仕事に就く必要があります。

そこで2000年からの私のプランとして浮上したのが、ペンシルバニア大学でポスドク研究員になるということでした。医師が専門医研修が終わったあとにポスドク研究員になることはそれほど珍しいことではなく、研究医(Physician Scientist)として身を立てるためにはごく普通の研鑚制度といえました。分子病理学フェローシップの成果をまとめた論文は冒頭にある通り、2002年まで出版できません。独立職につくためには、実力とビザの制約の両方が足かせになっていました。

ポスドク研究員になるために、2年ルールに関係なく取得できるビザとして、私は事もあろうにO1ビザに白羽の矢をたてました。このビザは、例えばスポーツ、芸術、芸能、学問、医療、他の専門職領域での傑出した人が米国で仕事をするときに出される1年間期限だが、何度でも延長できるビザです。さらに具体例を挙げると近年増えている日本人野球メジャーリーガーのようなレベルの方々に与えられるものです。

分子病理学のフェローシップ中にそんなビザはとれるのでしょうか。最初私は半信半疑で、もしかしたら無理かもしれないと思いました。しかしこの時は辣腕の移民弁護士に出会えたのが幸運でした。加えて自分自身でもできる限りのことをしました。例えば病理学会組織である、College of American Pathologists(CAP)の分子病理学委員会の若手委員会員の募集に応募して、2年任期で採用してもらったりしました。そうするとその委員会活動の重要性はもとより、その分野の一流の人物と知り合いになれて、推薦状をいただくこともできます。そういう活動を通じていかに自分が傑出しているかをアピールしたわけです。

それから肺病理学会(Pulmonary Pathology Society)からも病理学研修医賞を頂いて、次の2000から2001年度に陸軍病理学研究所(Armed Forces Institute of Pathology(AFIP))というところで肺病理学を勉強する機会もいただきました。受け入れ先はAFIPの高名な肺病理学者 Dr. William TravisとDr. Michael Kossでした。ちなみにAFIPは病理学の重要な図解入りのアトラスを何十年にもわたって出版していた病理学のかつての総本山的な存在で、2011年まで存続し、現在は病理学アトラスの出版と改訂はAmerican Registry of Pathologyが続けているようです。

そうやって自分なりの最善を尽くした結果として、運よくO1ビザを取ることができました。推薦状を書いてくださった分子病理学の重鎮の先生方と、この辣腕弁護士には感謝あるのみです。このO1 ビザによって、ポスドク研究員としてWilson研究室で仕事をする運びになりました。

1999年7月から、教職員のポジションを始める2001年11月までは、仕事を着実にこなしつつ、キャリアアップのための様々な活動の時間の予定を綿密に立てたうえで、そつなくこなしていかないといけないという濃密な2年4か月になりました。

この期間を振り返るに、非常に困難に見える時でも、自分なりの精一杯の努力を怠らなければ、何かしら突破口があるということが実感できました。

次回に続く

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