日本からアメリカへ12

2000年にポスドク研究員として研究を始めてからは、当然ですが研究中心の生活となりました。実験をずっとやりながら、どうやったらうまく結果が出るか考える毎日でした。

また東京大学医学系研究科大学院卒業のために卒業論文を仕上げるという作業もありました。大学院は4年休学ののちに、1998年に復学しており、必要な単位はなんとか取得しました。あとは卒業論文です。これにはペンシルバニア大学で行った脊髄性筋萎縮症の分子遺伝学研究を使ってなんとか仕上げました。1993年に入学してから足かけ8年でようやく大学院を卒業し博士号を取得しました。

それから2001年になると、今度は次のステップを考える必要が出てきます。実験と並行して、教職員や独立した病理科医師の仕事の方も探すということになりました。

普通はポスドク研究員というと2年から4年くらい研究して、論文を最低1本仕上げて、研究者として一人前になってから独立するというのが一般的ですが、当時の私には幸か不幸かそんな常識は全然ありませんでした。私のポスドク研究員生活は結果的に1年4カ月くらいの比較的短い期間となりました。当然ですが、たった1年半未満の期間だと大きいプロジェクトは完成できるはずもありません。幸い分子病理学フェローシップ時代からの結果が確実に出る仕事の方で論文を出版できる予定はありました。

長いポスドク研究員期間を待たずに独立した教職員の仕事を探したのには、もちろん1年ごとの更新が必要なO1 Visa保持者であるという事情も背景にありましたし、私の給料の出どころであったPIのNIH研究グラントが2年期限のR21という種類だったことにもよります。どういう理由であれ、ポスドクに2年も3年もかけていられないというのは、実は私にはむしろ幸運なことでした。

次のステップの選択肢の1つ目は、前の記事でも触れた2年ルールの義務を果たすために、日本に帰国するというものでした。ただ日本の大学のポジションの可能性は、東京大学を含め複数ありましたが、どれも十分納得のいくポジションではありませんでした。というわけで深入りして条件を詰めるということもせず、米国でのポジションを模索することになりました。

2年ルールの義務の免除(Waiver)は、米国の国益にかなうような仕事で、しかも米国人のなり手がいないというポジションがあれば、取得が可能かもしれないことは、O1 Visa取得の際もお世話になった、辣腕移民弁護士が教えてくれていました。当然そういう仕事の可能性を念頭に探すということになりますが、そんな都合のいい仕事があるか自分では半信半疑でした。

そこでまず期待したのは、ペンシルバニア大学からの教職員オファーでした。他の病理フェロー達の中にはオファーを当然のようにもらっている人がいました。しかし私には何のオファーもありませんでした。今から考えるとグラントも持っていないし、論文もまだろくに出ていませんので、当たり前と言えば当たり前のことでしたが、当時はそれがわかっていませんでした。しかしながら、なにくそ、どこに行こうと絶対にうまく仕事をして結果を出して、仕事をオファーしなかったことを必ずや後悔させてやるぞという反骨心は芽生えました。

とりあえず米国で手広く仕事探しを続けないといけませんでした。

次回に続く

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