日本からアメリカへ13

私の仕事探しの話が続きます。今となっては自分でも忘れかけていたくらいなのですが、仕事探しをしていた頃は、私の第一の目標は病理学医師としてよい仕事をすることであり、研究者として優れた研究をすることは、そのおまけ、第二の目標という考えでいました。そう思えば、当時は病理学でも新しい分野であり、医師としての仕事自体があまりかった分子病理学をフェローシップに選んだ時点で、就職活動の苦戦は半ば予想できたことではありました。

しかし今振り返ってみても、当時の私には先見の明が間違いなくありました。それからの病理学の25年の発展を考えると、将来的には分子病理学の仕事が増えて、病理学診断に不可欠なものになるとの見立ては順当で、現在は全くそのとおりになっているわけです。現在では米国の著名な大学病院においては、癌症例のほぼ全症例に分子病理学検査が行われています。

研究者という仕事を第一にしようとすれば、当然研究費の獲得を自分でしないといけませんし、自力で研究費を十分獲得するまでは、何かしら資金がないといけません。そこで研究者を志す若手医師の多くは、ポジションだけでなく、スタートアップの資金を交渉するのが普通なわけですが、こともあろうに就職活動中、私はそうした交渉を全くしておりません。それは単に私が無知すぎたということもありますが、私が仕事を探したときは研究者としての側面を第一に考慮した仕事探しをしたわけではなかったからでした。

要するに、若い頃の私には、研究費をどんどん取って研究する研究者になるというイメージは全くと言っていいほどなかったわけです。しかしながら、ひとつ確実に言えるのは、NIHの研究費が比較的取りやすい時代に、ハーバード大学関連病院の教職員を始めて非常に幸運だったということです。私を雇った研究者のNIH研究費によって私の給料が用意されていたからです。

私自身も実際ハーバード大学に来てから、半ば成り行きではありましたが、研究費をどんどん取って研究する研究者になりました。しかしながら、そうなってからも、いかに少ない研究費でいかに世界を変える重要な結果を出すかということに重きをおいていました。

それはさておき、分子病理診断学を主体とした病理学医師のポジションの探索は、予想通り難航しました。私の教職員の仕事探しは何カ月も進展がなく難航していました。その間も私は将来の展望に不安を抱きつつも、ペンシルバニア大学の研究室で粛々と研究生活を続けていました。

そこでこの大苦戦の状況を打開しようと、私は募集があるかないかに関わらず、全米の大学病院の病理科を中心に50余り私の履歴書をEmailで送ることにしました。履歴書をつけて仕事はありませんかというEmailを半ば当てずっぽうに、50か所以上の施設に送ったのです。そしてその返事を待つことにしました。結果として面接に呼ばれたのはたったの3か所でした。大苦戦の程がお分かりかと思います。

今でもはっきりとその日のことは覚えていますが、ある日突然、研究室にボストンから電話がかかってきました。それはDr. Christopher Fletcherからでした。Dr. Fletcherといえば当時はもちろん、今でも外科病理学分野では知らない人はいないというくらい、軟部組織腫瘍研究で高名な病理学医師・研究者でしたので、私はびっくり仰天でした。実はちょうど10歳年上の彼も偶然にも私と同じ年、1995年に渡米していますが、それはブリガム&ウィメンズ病院の外科病理学部門ディレクターとハーバード大学病理学教授に若干37歳にして就任するためでした。それにひきかえ私は27歳で病理科学研修レジデントになるためでした。たいへん大きな違いです。

Dr. Fletcherは早口のイギリス英語で、私にできるだけ早く面接に来ませんかと伝えてきました。私はびっくり仰天でした。しかしこれ幸いとばかりに、さっそく数週間後に面接することになりました。彼は残念ながら、2024年に亡くなりましたが、当時この仕事の公募委員会の座長であり、後に私のハーバード大学ジュニア教職員時代のメンターの1人となりました。この電話が初めての会話でした。

履歴書を送りまくっているときにも、ハーバード大学関連病院に送っても無駄だろうなと思っていましたが、ダメ元で何も失うものはなし。とにかくできるだけ多くの施設にEmailを送ろうと、ハーバード大学・ブリガム&ウィメンズ病院を50か所以上の送り先施設の中に入れていたおかげで、初めての教職へのインタビューにこぎつけました。これは本当に運がよかった、ツキがあったとしかいいようがありません。

しかもこの仕事を理由にJ1 Visaについていた2年間の帰国義務の免除(Waiver)をとれるかも知れません。この後の記事でもう少し詳しく述べますが、この仕事は国家的大規模集団研究における大腸癌分子病理学研究で、しかも米国人の適任者が見つからなかったということです。実際に仕事始めから約2年で2年間の帰国義務の免除がとれました。

いろいろな分野で活躍している人のインタビュー記事を見たり聞いたりすることが多々ありますが、多くの人が「運がよかった」「ツイていた」と言っています。ハーバード大学関連病院の仕事が空いていたのは本当に天運としかいいようがありません。

次回に続く

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