日本からアメリカへ15

ついに、初めての教職員職の面接にこぎつけました。しかも場所はボストンのハーバード大学関連病院です。私としては千載一遇のチャンスと思ったので、かなり気合を入れて面接に臨みました。

面接自体は横須賀と沖縄の米海軍病院インターン職の時に2か所(こちらの記事)、レジデント職応募の時に11か所(こちらの記事)、それからレジデント中途職の時に2か所(ブラウン大学とケースウェスタンリザーヴ大学)(こちらの記事)、フェローシップ(5年次レジデント枠含め)の時に3か所(ピッツバーグ大学、ペンシルバニア大学、マサチューセッツ総合病院)(こちらの記事)とすでに18か所の面接を経験しておりました。

しかしながら、今回は初めての本格的な教職員仕事の面接で、しかも長年の私の第一希望といっていい、3回目の挑戦となるハーバード大学関連病院です。

2001年7月に、ハーバード大学での面接の本番がやってきました。この仕事の公募委員会の座長は前回に述べたようにハーバード大学病理学教授のDr. Christopher Fletcherでしたが、この仕事の資金の提供者はDr. Charles Fuchsというダナ・ファーバー癌研究所の腫瘍内科医師で、面接当時はハーバード大学助教でした。私が仕事を始めて間もなく准教授になりました。彼はNurses’ Health Study(看護師健康研究)とHealth Professionals Follow-up Study(医療従事者追跡研究)という2つの長期観察研究集団において、大腸癌研究を主導している一人でした。彼が複数の大きなグラントを持っていたので、そこから私への人件費と研究費が支払われるという手筈になってました。それがいわゆるスタートアップ資金の代わりというわけでした。Dr. Fuchsは新しいシリーズの「ハーバード大学での仕事」において中心的な役割を果たすことになります。

彼らの他には、当時のブリガム&ウィメンズ病院病理部の暫定座長(チェア)のDr. Frederick Schoen、当時の分子病理学ディレクターのDr. Jeffrey Sklarと副ディレクターのDr. Janina Longtine、病理学者でダナ・ファーバー癌研究所にある自身の研究室に私をインストラクターとして迎え入れることになるDr. Massimo Lodaも私を面接しました。インストラクターは駆け出しの教員ポジションであり、厳密には半独立した教職員で、より上位の教職員が正式メンターとしてつくことになっており、それがDr. LodaとDr. Fuchsの2人です。私にとっては資金を提供してくれるDr. Fuchsと研究室内の研究場所を提供してくれるDr. Lodaというわけでした。それから24年後の現在は、第一線からは引退して名誉教授になっているDr. Schoenを除く全員がすでにブリガム&ウィメンズ病院やダナ・ファーバー癌研究所にはいません。時の流れを感じずにはおれません。

ハーバード大学関連病院の面接ということもあり、面接が始まるまではどれほど厳しく品定めされるか戦々恐々としてました。しかしいざ面接になると、拍子抜けするほど、歓迎ムード一色でした。一人の例外を挙げるとしたら、Dr. Sklarでしょうか。彼は分子病理学の詳細までするどく突っ込んだ質問をしてきました。私がハーバード大学で仕事を始めた2001年11月までには、すでに彼はイェール大学に転職してしまいました。

私の経歴は確かによく公募の内容と合致していましたし、他に適切な候補者がいないようでした。特にたいした問題もなく面接員全員と和やかな話に終始して、面接訪問は無事終了しました。

面接から帰ってからも、これはひょっとするとうまく仕事をとれるかもしれないとわくわくしながら、2-3週間過ごしたと思います。そして、やはりまたDr. Fletcherから連絡が来ました。もう一度面接に来てくださいという内容で、しかも今回は自由日を設けるから、住むところを探すといいでしょうとのことです。これならオファーがあるだろうと思いました。ものすごくうれしかったのを覚えています。

2度目の面接は2001年の9月上旬でした。フィラデルフィアからボストンまで車で運転して到着しました。途中でいつも見るマンハッタン島にそびえたつワールドトレードセンターも含めた高層ビル群を右手に見ながらニュージャージー州を通過しました。9月10日の2度目の面接に心が躍っていました。

次回に続く

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