日本からアメリカへ17

前回に述べたように、面接旅行中に9・11同時多発テロ事件がありましたが、私は職のオファーを得るために全力を尽くすしかありません。

以前の記事に述べましたが、1995年1月に阪神淡路大震災が起こった時には、米国で研修のための面接旅行を始めたばかりであり、次々と続く面接に最善を尽くす以外はなかったのとちょっと似ています。

ハーバード大学関連病院への2回目の面接と前後して、ニューヨーク州北部のロチェスター大学からも面接の誘いがあったので、訪問しました。主として外科病理学業務中心で、将来増加すると予測されていた、分子病理学診断業務も考慮した仕事内容でした。

最後にもう一か所、首都ワシントンのジョージタウン大学からも面接の誘いがあり、ここにも訪問しました。こちらは分子遺伝学の臨床、研究、教育を担う若手教職員という仕事でした。もうこの時はほぼ就職先は決まっているも同然でしたが、そこのプログラム・ディレクター(Dr. Lee-jun Wong)とは遺伝子研究関連の別件ですでに知り合いであったので、良い機会と思い訪問することになったのです。私の教職員仕事の面接は2か所と言ったり、3か所と言ったりあいまいなのはそのせいです。

結局、50以上の施設に仕事の空きを問い合わせて、面接にこぎつけたのはわずか3か所でした。しかし良い仕事が1つあれば私には十分です。

仕事の内容や施設の充実ぶり、メンターや共同研究者などの全てにおいて、ハーバード大学関連病院の仕事以外は考えられませんでした。それにもうボストンに2回、面接のため訪問したということもあり、ロチェスター大学やジョージタウン大学の面接中も、私の心はすでにボストンにありました。あまり好ましいことではありませんが、話をしていても半ばうわの空でした。

後で振り返ると、私にはいろいろな制約があり、最強の候補者とはとてもいえません。1年更新のO1 Visa持ちでグリーンカードはまだ持っていません。J1 Visaについていた2年帰国ルールの免除も取っていません。グラントを取得していたわけではありません。外科病理学にしても臓器別の専門の技量を身につけたわけではありません。さらに分子病理学フェローシップとポスドク研究をやってる間に、外科病理学研修からすでに2年半経過しています。分子病理学診断はまだ普及しておらず、仕事が限られています。研究論文もまだ数は少なく、分子病理学分野ではまだ未出版でした。つまり私を雇うということは、私の仕事がうまくいかないリスクも複数あったということです。

これは仕事を始めてからわかったことなのですが、上司でありメンターのDr. Charles Fuchsが、私の仕事を徹頭徹尾、徹底的に支持してくれました。そのおかげで教職員仕事の最初の困難な数年を耐えて、成長することができました。前のポスドク研究員時代のメンターDr. Robert Wilsonもそうでしたが、若い才能を伸ばすのが非常に長けたメンターであり、その面で私はたいへん幸運でした。私もそういうメンターになりたいと本気で思いました。この点については、将来の連載記事「ハーバード大学での仕事(仮題)」に詳しく述べることにしましょう。

現実問題として、私自身のポテンシャルに複数の未知な点、マイナス点もありながら、よくハーバード大学関連病院の仕事が取れたものでした。前回の記事で述べたような幸運がありました。なによりハーバード大学関連病院の若手病理科医師がその職種に合わなかったのと、分子病理学分野の技量がある若手病理科医師はもっと基礎的な研究を志向していたということです。それで私の雇い主(つまりDr. Fuchs)も私の応募を待ってくれていた状況となりました。千載一遇の出会いがあったということです。

それと何と言っても当時の私のメンターであったDr. Wilsonが私を強力に推薦したことが重要であったことは疑う余地がありません。

2回目の面接の後、間もなく正式な仕事のオファーがあり、本当に純粋に嬉しかったです。在沖縄米国海軍病院インターン、レジデントマッチング(アリゲニー総合病院)、3年次レジデント(ケースウェスタン・リザーヴ大学)、分子病理学フェローシップ(ペンシルバニア大学)と、仕事のオファーは、自分への評価をそのまま反映しており、何度でもいつでも嬉しいものです。さらに今までの決まった年数の研修職と違って、今回は本格的な教職員の仕事です。それは仕事探しに何カ月も難航した私には十分すぎる条件で、何も交渉することなくそのまま同意しました。今でもそのオファー手紙は大切に保存しています。それから引っ越しの準備に追われることとなりました。

そうして2001年11月についに待ちに待った本格的な教職員としての責任ある仕事を、それもハーバード大学関連病院(ダナ・ファーバー癌研究所とブリガム&ウィメンズ病院)で、始めることとなりました。

それからも現在に至るまで、思いもしない出来事や数多くのドラマが待ち受けていることは、もちろんその時はまだ知る由もありません。

ここで1993年の私の大学卒業時からハーバード大学での仕事を始める2001年11月まで続いた計8年半にわたった記録である「日本からアメリカへ」の17回シリーズを完結することにします。ハーバード大学関連病院での仕事を始めてからの出来事については、そのうち新シリーズ「ハーバード大学での仕事(仮題)」を作って引き続き振り返ることにします。

この次からは時代をさかのぼって、「幼少期から大学まで」という新シリーズを始めることにします。

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