日本からアメリカへ3

前回書いた時からかなり時間が経ってしまったので、新しくブログを読んでくださっている方は、私がアメリカでキャリアを形成することとなったきっかけ等について書いた日本からアメリカへ1及び2を読んでみてください。前回は、私が大学卒業後、米国医師国家試験(USMLE)を受験して、全米で約70か所の病理科研修プログラムのうち11か所から面接の通知を得たところまで書きました。
ご存知ない方のために、ここで少しUSMLEとマッチングシステムについて説明します。当時のUSMLEのシステムでは、ステップ1、ステップ2という医学の筆記試験と英語試験に合格すると、自分の希望する全米各地の診療科のマッチングプログラムに応募する資格を得ることができました。マッチングとはその名の通り、施設側と受験生のお見合いのようなもので、お互いが順位をつけて、最も高い順位で双方の希望が合致したところが研修先となります。全米の研修プログラムごとに定員が定められているため、マッチング応募者全員が希望通りの診療科で研修をすることはできませんが、診療科ごとに必要な人数が集められる仕組みです。
少し話が逸れますが、日本のシステムはアメリカと違って各自が希望した診療科で研修ができるため、人気のある診療科では医師が余り、比較的人気のない診療科では医師の不足が起こります。その結果、人気のない診療科の仕事量は増えて激務になり、ますます人気がなくなります。診療科選びに競争を導入して人数の偏りを防ぐという意味では、アメリカのシステムは優れていると思います。
1995年1月14日から、アメリカ各地の面接の旅が始まりました。沖縄から羽田、成田、サンノゼ経由でシカゴに飛び、3週間で8都市11箇所という到底過酷にしか見えない強行日程の面接旅行でした。
面接は(回った順番に)ノースウェスタン大学(シカゴ)、ミネソタ大学、ヘネピン郡医療センター(以上ミネアポリス)、アリゲニー総合病院(ピッツバーグ、ここにマッチした)、ニュージャージー医科歯科大学(現ロバートウッドジョンソン医科大学)、ニューヨーク大学、ニューヨーク州立大学ブルックリン校、ハーバード大学附属ディーコネス病院(現べスイスラエル・ディーコネス病院)、ボストン市病院(現ボストン大学医療センター)、バークシャー医療センター(ピッツフィールド)、聖ジョンズ慈悲医療センター(St. Johns Mercy Medical Center、セントルイス)でした。
現在のようなインターネットはありません。手作業で、電話をかけてホテルと飛行機を予約して、旅行資金もトラベラーズチェックを用意して、現金払いが主流です。しかも私の初めての海外旅行ということもあり、興奮度最大で、めちゃくちゃ楽しかったという記憶しか残っていません。大変だったはずなのですが、苦労したという記憶がほとんどないのです。今でもその時の日程を記した手帳が手元に残っていて見ると、その時に刻まれて今まで残っている記憶がまざまざと蘇ります。シカゴに降り立った日は、もう夜で真っ暗の中をシャトルバスがそれこそ猛スピードで都心に向かったのを覚えています。旅費も今となっては考えられないくらい安い。だいたい一泊50ー100ドルで足りました。時差ボケもあったはずですが、到着して翌日1日だけ休んで、曇りで無茶苦茶寒い人気の少ない1月の日曜日朝のシカゴ、ミシガン湖畔を歩きました。次の日にはもう最初の面接でした。今ではちょっと考えにくい強行日程です。それからもいろいろな面接がありましたが、その時の面接旅行が現在まで含めても面接旅行の中では一番楽しかったと言えます。
各所の面接は似たようなもので、研修プログラム・ディレクターや指導医等の複数の人物と一対一で朝から夕方まで面接をするというものでした。面接での質問の内容は、なぜ病理科を選択するのか、将来どのような医師になりたいのか等の一般的な質問でした。
面接期間中に一つ大きな出来事が起こりました。郷里の兵庫県南部で起こった阪神淡路大震災です。米国中央時間でシカゴでの1月16日午後(日本時間17日早朝)、面接後半に発生しました。もちろん当時はインターネットはなく、面接準備と旅行手配のためろくにニュースも見ませんでしたし、まだニュースにもなっていなかったからか、まったく知らずにいました。次の場所、ミネアポリスで、17日に現地の人に日本で地震があったそうだぞと初めて聞きました。私にとっての第一報です。しかしそれ以上の情報はなく、私は明石市の実家に国際電話をしました。そのときはなんと通じたのです。私の両親も明石でも地震はあって、揺れたが実家は大丈夫であるが、全体でどのくらいの被害状況かはまだよくわからないと答えました。それからは電話はかなり何日も全く不通になったように記憶しています。
その後数々の面接を終え、1月21日にニューヨーク入りしました。その移動直後に街を歩いていると阪神淡路大震災の被害状況を報じる新聞がいろんなビルの壁に貼り付けられていて、改めて、大災害だったことがわかりました。普通アメリカ人、アメリカのメディアは日本の出来事にはさほど関心はなく、日本のニュースなどまずないのですが、これは全く別格の大災害であることが思い知らされました。私にできることは面接でベストを尽くすことだけでした。
面接では自分の病理学への熱意を一生懸命に伝え、緊張することなくきちんと質問に答えることができ、悪くない手応えだと思っていましたが、最終的にマッチしたのは、志望順位9番目のピッツバーグにあるアリゲニー総合病院という、一応大学附属であるものの実質的には大きな市中病院でした。
面接での手応えはまあまあだったのにも関わらず、なぜこのような結果になったのか、後年になって多くの医学生やレジデント(研修医)の履歴書を見る立場となって理解することができました。アメリカの学生は履歴書を充実させるような、受賞歴や実務経験をレジデントに応募する段階で持っているのです。受賞歴といっても、大体の場合は学生ですから全然大した賞ではありません。しかし、しっかりとした履歴書を作るために、チャンスが有れば賞に応募して獲得するという姿勢が求められるのでしょう。中には論文の執筆歴がある学生もいます。対して、日本の医学部を卒業して、在沖縄米国海軍病院でインターンをしたものの、一つの論文もなく、何の受賞歴もない一枚のみの私の履歴書と比べてどちらが見栄えがするかは明らかです。今から思えばマッチしたこと自体が幸運以外の何物でもありません。
何はともあれ、何としてでも米国で病理学科研修を始めたかったので、マッチの通知をもらった日のことは一生忘れません。これで何とか道が拓けました。場所は二の次三の次でした。そして、その時はアリゲニー総合病院で私の米国での最初の重要なメンターに偶然出会うという幸運が待っていることはまだ知る由もありませんでした。
私には分子病理疫学分野における学問上の師匠はいないに等しいのですが、メンターにはたいへん恵まれました。そのことについてはまた何度も触れることになるでしょう。
こうして、6月に日本より研修先の病院へと旅立ちました。
次回へ続く