逆境を乗り越えて幸運を掴む2

私は転んでもただでは起きません。

以前の記事と重複する内容もありますが、これまで私のキャリアにおいて、想定外の事態を幸運に変えてきた事例が何度もあったのでここに述べていきます。

1.アメリカ行きを決めたとき

東京大学医学部卒業後、病理学を研究したいと思って同大学の病理学教室に大学院生として入りました。当時の私の大学院生活は思っていたより低調で、それを4年続けるということに不安と危機感を感じました(これが想定外)。そこで大学院生活に見切りをつけて、在日本米国海軍病院のインターンとしての就職を目指し、その後は米国で病理学科の研修医になろうと決めました。これは現在に至るまでの私のキャリアを語る上での最も重要な決断の一つと言えます。日本の医学界の王道、普通のキャリアのレールからはずれることを意味しました。先行きの保証も何もない中でしたが、自分の直感に従うのみでした。その先は「何とかならあ」と思っていました。今でもそうかもしれませんが、当時はかなり常識はずれの決断でした(詳しくはこちらの記事)。29年も前の話になりますが、その時の若い私が感じた違和感は、間違いではなかったと今になって思います。医局というのは、日本社会の古いシステム(まあ平たくいえば徒弟制度)を象徴する構造であると今でも思います。今の日本の停滞は、少なからずこの古い構造的システムによってもたらされたのではないかと私は考えています。日本人は小さいころから、親と子、目上と目下、先生と生徒、年長と年少、先輩と後輩(たかだか1年程度の違いで)、師匠と弟子、上司と部下、指導者と被指導者、などあらゆる局面で結構厳格な上下関係が刷り込まれてしまって、ある意味行動の制限をします。お互いに相手に対して使う言葉遣いすら違います。そしてその足枷が、自由で闊達な科学活動、経済活動を阻害します。ちなみに、この頃からアメリカの病理研修時代には、様々な日本の先生のサポートもありました。例を挙げると、黒川清先生、福原俊一先生、坂本穆彦先生、町並陸生先生、真鍋俊明先生、泉美貴先生、福島孝徳先生、深山正久先生、笹野公伸先生、長村義之先生、向井清先生、土橋洋先生、松谷章治先生など。そうした先生方の有形無形のサポートなくしてはその後のキャリアの発展はおぼつかなかったはずです。

2.在沖縄米国海軍病院でのインターンシップ

病理学教室を脱出するために横須賀と沖縄にある米国海軍病院の日本人医師インターンシップに応募することにしました。歴史的も横須賀の方が古く伝統があり、すでに卒業生も多数活躍していました。一方沖縄のインターンシップ・プログラムはまだ歴史は3年しかありません。当然横須賀が第一希望でしたが、残念ながら次点で合格できませんでした。これははっきり想定内でしたが希望通りではないという事で、いい事ではありません。しかし気を取り直して沖縄でのインタビューでは悔いなくベストを尽くせました。結果、無事沖縄では合格を勝ち取りました。横須賀にもし合格していたら私の人生がどうなったか、まったく知る由もありません。

3.アメリカでの研修先応募における推薦状

沖縄にいるとき、アメリカでの研修医の職を探しました。ところが、私が推薦状をお願いして書いてくれた1人のアメリカ人医師(在沖米国海軍病院の当時の指導医の1人)がどうやらとんでもないネガティブな推薦状を書いていました(これが全くの想定外)。もちろんそれでは推薦になりません。実際にインタビュー先で「あなた、こんなこと書かれてるよ」と見せてもらいました! だったら「自分にはいい推薦状は書けない」と私に断ればいいのに。不幸中の幸いにもとりあえず運よくマッチしましたが、それは11施設中の最後の方の第9希望でした。しかしながら災い転じて福となし、そのペンシルバニア医科大学付属アルゲニー総合病院で神の手を持つと称される福島孝徳脳外科学教授との、ほんとうに偶然としかいいようのない出会いがありました(詳しくはこちらの記事)。そしてその後の研修先の遍歴(97年にケースウェスタン・リザーヴ大学、99年にペンシルバニア大学に移動)と病理学・分子病理学の修練はハーバード大学の仕事につながっていきました。もう少し上位の希望施設にマッチしてたら私の人生がどうなったか、知る由もありません。わざわざ自分の時間を使ってご丁寧にもネガティブな手紙を書き、それによって私の人生を好転してさせてくれたその指導医(名前ももちろん覚えています!)にはほんとうに感謝以外ありません。

4.ペンシルバニア大学で教員ポストを得られなかったとき

そして数年がたち、ペンシルバニア大学で分子病理学臨床フェローシップと実験系ポスドク研究の修練をしました。私は臨床留学もポスドク研究留学も両方体験したことになります。もちろん両方得難い貴重な体験となり、その後の私の道を拓きました。しかしながら研修時代(私の場合は6年間に3つの大学病院に勤務しました)が終わり近くになると、優秀な同僚には研修先から就職のオファーが来るのです。私にも来るだろうと待っていたのですが、全然来ませんでした(いわば想定外)。今から思えば、単なる総合力不足・実力不足だったので、当然の出来事なのですが、当時はショックを受けました。ただそれで自分の実力が他人にどう評価されているかわかりました。逆に自分の実力をいつかは証明して見せようと思いました。そういうわけで今度は日本で自分に見合うポストを探しましたがこれもうまくいきませんでした(これがもっと想定外)。そこで米国も含めた就職活動を手広くした結果、ハーバード大学、ダナファーバー癌研究所、ブリガムアンドウイメンズ病院での現在の仕事に繋がるインストラクターの職につくという幸運にめぐりあえました。この時の運を掴めた理由は応募したタイミングが良かったことはもちろんですが、それだけではなかったと思っています。まず、公募がある無しに関わらず手当たり次第に履歴書を送って就職活動をしたことです。それから分子病理学の将来の発展を見越してペンシルバニア大学では分子病理診断学の最先端のスキルをすでに身につけていたことです。

5.若手用研究グラントの期間が短縮されたとき

ハーバード大学に移って何年か経ち、若手研究者用のキャリア・ディベロップメント賞という研究費に1回目は挑戦するも失敗しました(これはある意味想定内)。同じ研究費を2回目の挑戦で得ることができました。この研究費は本来ならば5年間にわたって支給されるところでしたが、若手にしてはすでに研究が順調に走り出しているという理由で4年に短縮されてしまいました(これが想定外)。理由は悪くないのですが、当てにしていた資金が入ってこないというのは、想定外もいいところです。しかし、グラント期間短縮の宣告が功を奏して、キャリア・ディベロップメントグラントを取得してから2年目にはR01というアメリカではスタンダードなグラントの準備をし、1回で取得することができました。キャリア・ディベロップメントグラントの4年目を含め丸1年以上はR01と並列で資金が入ってきました。その更に4年後には、キャリア・ディベロップメントグラントとR01グラントが1年間重なったおかげで、より高額の7年間グラントであるR35傑出研究者賞の応募資格を得ることができて、R35のグラントの獲得につながりました。つまり、最初のグラントの期間短縮という悪い出来事が結果として連鎖するように後の高額研究費獲得に繋がったということです。さらにそれよりも前に1回目でキャリア・ディベロップメントグラントがもし取れていれば、その後うまくいったかはわかりません。現在の私を取り巻く状況になったという保証はありません。

6.国際分子病理疫学会の開催の経緯

今年で第6回目の開催となり、100人以上の参加者の集まる国際分子病理疫学会の開催についても、そもそもの発端は、2012年に仲間内で疫学研究学会(SER)に分子病理疫学(MPE)について議論を行うシンポジウムの提案がリジェクトされてしまったことにあります。仲間の一人が、せっかく素晴らしいシンポジウムを提案したのにもったいない、是非とも我々だけで集まろうと言って、少人数で集まって議論を始めたのが第一回の会合です。たまたま仲間全員の都合がつく日が2013年の私の誕生日でした。

7.ネーチャーレビュー総説出版

最近我々の研究室からネーチャーレビュー・クリニカルオンコロジーに2021年と2022年に連続して2本発表された、若年性癌に関する総説についても、実は想定外の事態から始まりました。はじめは2019年後半に全く別の某雑誌から若年性大腸癌の総説の執筆依頼がありました。私はラボの研究室員を中心にして草稿を執筆し、最後に私が確認して論文を提出すると計画を立てました。しかしながら、蓋を開けてみると私の手直しが必要な部分がたいへん多く(これが想定外)、折角多大な時間と労力を使うのであれば、さらに総説の質を上げて注目度の高い雑誌に出版しようと考えました。それから共著者一同みな奮闘し高度な総説を仕上げました。それと並行してネーチャーレビュー・クリニカルオンコロジーからの執筆依頼を取り付けました。査読コメントに従って改訂するのも大変でしたが、この1本目はめでたく受理されて2021年に発表されました。その論文の質を上げる執筆中にすでに、若年性大腸癌だけではなく、多くの他臓器の若年性癌も増えていることがわかり、問題意識を持つことができました。それをきっかけに2021年に研究室員の鵜飼博士が中心となって、いろいろな外部の専門家を招いて多臓器若年性癌プロジェクトが立ち上がりました。そして近年増加傾向がみられる様々な若年性癌全般についての最新知見をまとめた斬新な総説が完成しました。1本目の若年性大腸癌総説の注目度は大変高かったので、再びネーチャーレビュー・クリニカルオンコロジーからの執筆依頼を勝ち取ります。それが査読と改訂により質をさらに高め、最終的に受理され、2022年に発表されました。これは1本目よりもさらに注目度が高い論文となって、いろいろなニュースメディアからインタビューを受けました。これらは最近の出来事でしたが、現在では我々の2つの総説論文が若年性癌についての論文の検索のトップにでてきています。この業績もあり、私のラボの名称も分子病理疫学・若年性癌研究室(略してMPE & EOC Lab)と改名しました。もし最初の論文の草稿がよく書けていて、そのまま某雑誌で発表されてたとしたらどうなっていたか考えたくもありません。

もちろんこれらの事例に当てはまらない日常の様々な場面においても、同じ考え方でやってきた結果が今です。運はその時点では運に見えないこともあります。だからこそ、想定外の悪い出来事でもまず受け入れ、そしてそれもチャンスの一つと思って幸運に変えていくことは誰にでも出来ると思います。それには落ち込む分のエネルギーを前向きなエネルギーに変換して行動することです。自分のコントロール外のことはさっさとあきらめ、受け入れ、自分ができることに集中するのです。

自分の人生は一度きりなので、世間の常識や、周りの環境から求められるように振る舞うだけではなく、自分の力で選択し、あとはがむしゃらに頑張り、結果は受け入れるという方が、私は良かったと思います。

結局のところ、人生がうまく行ってるかどうかは、自分の気持ちの持ちようであり、誰でも自分でコントロールできることです。もっといえば、人生の成否は他人が決めるのではなく、自分が決められるということです。

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