日本からアメリカへ7

以前、ブログを読んでくださっていた方はご存知だと思いますが、私が日本からアメリカへ渡ることになった経緯を書いた、日本からアメリカへというシリーズがあります。前の記事から、いつの間にか数年たってしまいましたが、このシリーズを続けて行きたいと思います。
前回書いたように、米国医師国家試験(USMLE)の受験後、病理科学専門医研修の1、2年目をピッツバーグのアリゲニー総合病院で、3、4年目をクリーヴランドのケースウエスタンリザーヴ大学で行いました。アメリカでの病理学研修は基本の解剖病理学・臨床病理学の4年のあとは専門分野のフェローシップを2年くらいして専門技量を身に着けるのが一般的です。そこで私は、ケースウエスタンリザーヴ大学での病理学研修と研究実験のかたわら、専門分野のフェローシップ・ポジションを探して応募することを繰り返していました。
そのころ興味があったのは分子病理学(第1希望)と移植病理学(第2希望)でした。移植病理学はプログラム自体が稀少でありましたが、著名なプログラムのあったピッツバーグ大学で面接をしてまもなくオファーをいただき、それを受理しました。というのは分子病理学のフェローシップの面接や選定の時期が移植病理学や他のフェローシップの選定時期よりもっと後で、分子病理学フェローシップがまだ選定に入っていない以上は次の職を確保しておく必要があったからです。いまでは分子病理学のフェローシップ選定の時期がもっと前倒しになってるようですが、当時は分子病理学のフェローシップが黎明期で、面接は12月ごろ、つまり仕事が始まる6カ月余り前という異例の遅さでした。
当時は分子病理学のフェローシップもほとんど存在しておらず、面接の約束を取り付けるまでも苦労しました。幸いペンシルバニア大学の分子病理学のフェローシップの応募と面接はうまくいき、そのポジションをとることができました。実はペンシルバニア大学の分子病理学プログラムディレクターのDr. Debra Leonardは数年前までケースウェスタン・リザーブ大学にいたので、同大学のDr. Markowitzやその他の病理科医師の推薦状が大いに役立ったようです。そして実は私よりももっと優れた候補者がいたようですが、その人は訪問日に訪問先を間違えて、全米最古参病院の一つといわれるPennsylvania Hospitalに行き、大遅刻したそうで、それもあって私が代わってトップ候補に浮上したらしいです。Dr. Leonardが直々にこのことを話してくれました。Dr. Leonardはもちろん私の重要なメンターの一人となります。
これは、私が自分自身の力でコントロールできる範囲を超えたまったくの幸運です。この事例はまさに、できることをやり尽くして後は天命を待つ、そしてどんな結果が出ようがそれを受け止めるということの大事さを示しています。
実は知ってか知らずか、人生の中では何度も、こういう偶然が知らないうちにも起こっていて、何かを得られたり、別の何かを得られなかったりするものだと思います。人生とはまさにその繰り返しではないでしょうか。
もしそのトップ候補に順当に敗れて、すんなりピッツバーグ大学で既に決まっていた移植病理学フェローシップを選択していたらそれはそれで、面白い病理科医師・研究者になった可能性はありますが、今となっては知る由もありません。何かを選択するということは別の何かを捨てるということでもあります。
人生を主体的に自分で道を選択して、もちろん全部自己責任で、自分の好きなように生きることができる、これだけで十分幸せだということが言えるでしょう。
次回に続く