幼少期から大学まで4(自由で開放的環境と自主独立の精神)

今回は私の性格と気質の形成に多大な影響を及ぼした、私の生まれ育った環境にもう少し深入りしましょう。
幼少期から、私は集団や他人と違う行動を厭わない性分でした。もちろん日本の学校などでは、他人と同じ行動をするようしつこく教えられます。そして群れるのが当たり前の日本の学校において、私に色々な心理的軋轢をももたらします。日本人の集団の中で、自分の居場所がないという感覚は小学校から大学院までずっと続きました。もちろん日本で育つということは最低限の集団行動の基礎は身に着けるということになります。運動会、体育祭、学園祭などの集団行事も多いですし、泊りがけの修学旅行もあったりします。
最低限の集団行動のすらできないと、おそらく成長のどこかの時点で、いじめにあったり、仲間外れになったり、教師に邪険に扱われたりする確率が更に上がる、ということになりかねません。私の場合は違和感を感じつつもなんとか集団生活の仕方も学び、成長できたのは幸運でした。集団からはかなり浮いていたであろう私がいじめの対象には全然ならなかったのは幸いなことでした。それには理由があったのですが、また小学校時代の話のときに述べましょう。
大学を卒業してからも、例えば大学の医局や研究室・教室などの日本的な集団で生きていくのは、振り返ると理不尽と思えることもあり、私にとってはとても大変なことでした。私の「日本からアメリカへ」の脱出話で述べた通り、その理不尽さを避けることが、結果として米国でのキャリアにつながりました。
個人が他人と何か違っていてもまったく問題ない、という寛容性に少し欠けるのが日本の社会です。今でもそうではないでしょうか。いつも周りに合わせないといけない、周りと違っていたらいけない、あるいは周りを気にしないといけない感じです。こういう環境では、幼少期から周りと何か違う感じがしていた私の中に自己肯定感というのが、なかなか手放しで増えるというわけにはいきません。幼少期から、何かしら違っている、尖っている個性をそのままに受け入れるということが日本社会でもっと進まないものでしょうか。
私が大学卒業後に米国という新天地に渡る決意をするのに、さほど抵抗がなかったのには、そういう日本社会の在り方が関係しています。実際、私の自己肯定感がずいぶん上昇したのは渡米後だといっていいでしょう。
幼少期から今まで我が道を行く私は、邪魔されたり、行く手を遮られたり、命令されたり、強制されたり、指示されるのは大嫌いで、できうる限り避けます。何でも全部自分が決めたいのです。日常生活では、たとえば渋滞とか、長い列とか、大混雑とか、自分ではどうにもならないことが大嫌いですので、できるだけ避けます。それに自分が他人を邪魔したり、行く手を遮ったりするのも嫌いです。
スポーツでもバスケットボール、ラグビー、アメフトなど行く手を遮る動きが多いようなスポーツはあまり自分でやりたいとは思わなかったし、今でもそうです。もちろんそういうスポーツが好きな人がいるのも理解できます。こういった嗜好は人それぞれです。
なぜ私がこういう気質になったのか、遺伝的な因子以外に考えられるのは、実家周りの土地のかなり特殊な環境です。実家は明石市の印南野台地の田園地帯にあり、周りを遮る建物も何もないポツンと一軒家です。
私が育った土地は、播磨灘に面した海岸線から3キロ内陸、西は加古川、東は明石川の間に広がるゆるやかな、いなみ野台地(印南野台地)の一角です。この台地には大きな河川はなく、典型的な瀬戸内気候で、梅雨と台風の季節以外は降水量がとても少ないことで知られています。そこで大昔は水田を作ることが困難で、新田開発が近世まで遅れていました。
その新田開発を可能にしたのが、この台地に大小様々なため池を作ったことです。付近には兵庫県で最大の加古大池、飛鳥時代に原型がつくられた天満大池、江戸時代寛政年間に作られたとされる寛政池など、大きなため池から、小さいため池まで、それこそおびただしい数の池があります。その密度はおそらく世界一だと思います。香川県の讃岐平野が、たぶん唯一それに匹敵すると言えるでしょうが、地図を見るとその讃岐平野のさらに上をいっていると考えられます。これらのため池により印南野台地の大半が水田化されました。
昭和以降、現在まで多数のため池がすでに埋め立てられたにもかかわらず、いなみ野台地のため池面積の合計はいまだに400ヘクタール(つまり2Kmx2Km)以上となっています。このため池群の密度が世界一であることには疑いの余地はありません。これだけ多数のため池を作る必要があったということは、水がいかに生活に大事であったかを示しています。その歴史的証人として近所には水に関する出来事(水路が通ったとか、水争いがあって正式に和解したとか)を示している石碑が複数あります。
現在でも兵庫県には全部で4万以上のため池があり、2位以下の広島県、香川県を圧倒しています。これだけおびただしい数のため池を作れたという事実に、日本人の良い面、勤勉な面が存分に出ていると感じます。明石市に隣接する稲美町はこの「超高密度ため池地域」の全体を博物館に見立てて「いなみ野ため池ミュージアム」(https://www.inamino-tameike-museum.com/)と公式に名付けています。私も私を育んだこの「いなみ野ため池ミュージアム」は郷土の貴重な文化遺産だと思います。
そういうわけで私の実家は「いなみ野ため池ミュージアム」内の田園地帯にあります。大きな7つのため池に囲まれたエリアの水田地帯の中のポツンと一軒家で、私は生まれ育ちました。私は周りに多くのため池がある風景が当たり前だと思って育ちました。もちろん成長するにつれて、これはかなり特殊な環境だとわかりました。昔から現在まで、いなみ野台地の田園地帯で、四方を田んぼに囲まれ、近くには建物や家もなく、たいへん見晴らしのよい実家です。そこからは南には遠く淡路島や、東には神出富士といわれる神戸市西区の雌岡山も見えます。瀬戸内気候のため雨の日もあまりありませんし、ため池や夏の水田、冬の休耕田は、もちろん私の定番の遊び場でした。
現在でも趣味の散歩では、なぜか少し高くなっていて広々として遠くが見渡せるような場所を好んで歩いていることに気づきました。自転車でも見晴らしのよい田園地帯とか、風光明媚なしまなみ海道とかを走行するのが大好きです。この幼少期の環境が影響しているのでしょう。
田園地帯の中の独立したポツンと一軒家での幼少時代が、私の自主独立の精神を育んだのは間違いありません。多数集団とは別の行動をして、群れずにいわば一匹狼みたいに、生きていくというのは、これからの私の行動原理と生きざまになります。
次回からは、いよいよ幼少期の私はいったい何をしていた?ということに触れていきます。
次回に続く